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坂田は、波を描いている。
岩がちな海岸、小石交じりの砂浜は安いスニーカーの足の裏が痛いような粗さで、組み立て式の小さなイーゼルは不安定。少し傾いたそこへ立てかけたカンヴァスを前に、座っている赤茶けた石、だいたいこぶし三つ分の大きさ、なめらかな表面が海に向かって低くなる上。
傍らには底の浅い箱が広げて置いてある。中にちらばる絵の具のチューブ、交錯する筆と、角へおしこまれた雑巾は今朝おろしたばっかりの、三枚セットのうちの一枚。埋もれそうになっている瓶の中身は油。他にも用途のわからない細々したものたくさんが放り込んである。ところどころ細かい砂粒が張り付いている。
背後、コンクリートの高い壁と、波打ち際のちょうど中間あたり。二人の他には誰もいない。右の方はずっと続く砂浜の先に灯台。左の方は海へ突き出す山。
筆を使う坂田の隣で、別にやることもないからそんな景色を眺めながら煙草を吸う。煙も、油絵の具のにおいも湿った海風にさらわれる。
ぴゅーいととんび。
目で追えば、砂浜の終わりの山を越えてぐるりと廻る、もう一羽。見せつけるようにしてじきに木々の向こうへ姿を消す。それで波の音が戻ってくる。
坂田がチョコレートの包みを開けたりする。
カロリーオフのマヨネーズみたいな色をしていたカンヴァスは、その仕事で一面、海になっていた。
坂田は波、波、波を更に重ねていく。
今、目の前に現れるすべてを描きとめるように。
海辺
なぜか二人して朝早くに目が覚めた。カーテンの隙間から差し入りだした太陽光がなんだかやわらかくて、諦めきれなくて布団にぐずついていたら、
「海でも描くか」
こんな日には、と坂田が言った。
「海だぁ?」
「おぅ、今日の銀さんは珍しく仕事をする気分かもしれない」
「ほんとに珍しいな」
お前も来る?
「……」
だって今日の予定はみごとに白紙状態なのだ。
冷蔵庫をあさってできたチャーハンを朝飯に、軽くシャワーをあびてから坂田の画材をそろえた。
外は秋晴れ、薄手の長袖一枚では肌寒いくらいの天気。たしかにこんな日の海も悪くないかもしれない。
「そんなかっこで行くのか」
部屋から出てきた坂田は白いシャツを着ていた。髪の色もあいまってやたら寒々しい。
「うーん、ちょっと寒いけど、今日はこういう気分なんだよな」
「つくづく本能のままだなオメーはよ」
それから電車に乗って、住宅街をぐんと抜けて、畑だか田んぼだか真っ平らな線が続く内に少し寝て、気付けば海が光って見えるようなところまで来ていた。ごく小さく波の影が浮かぶ白い海。線路に近づくほど青さを増す。
「すげぇ」
海だ。
「でけぇ」
なんでだ、こんなでかいものがずっと地球の裏側まで広がっている。いつだって空も世界も自分サイズに切り取って暮らしてきた。海を相手にはそれができない。大きさがわかってしまって苦しい。
横を向いて坂田を振り返る、目のふちが痛いほど開かれているのを感じた。坂田はうっすら笑顔の成分入りの無表情、そんなふうに窓の外を見ていた。
ところが駅に降りた瞬間、暑さに汗がにじみ、盛り上がった空気は一瞬でしぼんだ。
「どういうこと?」
「秋の気温じゃねぇな」
吹く風もまとわりつくようで、ふたりとも急激に不機嫌になった。しかめ面で煙草をかみしめ、砂浜を探した。
「ほら、俺の本能が正しかったろ。シャツ一枚で十分だ」
「それでも暑いんじゃねぇか」
「……」
「お前と来たのが間違いだった」
「こっちのセリフだよ」
それでも海の方へ進むほど空気が澄んでいくみたいで、つられて行けばそれはすぐに見つかった。
「きちゃったぜー、海!!」
海に面したコンクリートの壁の間をのぞき込むと、一気に視界がひらけた。遠くかすむ水平線。海。坂田はそこから砂浜へ続く小石がつき出した階段を駆け下りた。
「海!!!」
「うるせーな!」
画材を入れた箱ががたがた鳴った。
そこで坂田はその海を、波を描きだした。しわのない、ピンと張ったカンヴァスの角から角までひたすらに波を、きらっきら輝く瞳でとらえて。
完成するかと思われるはじから絵の具が塗り重ねられ、絵は刻々と変化する海のままに色味を変えていった。この調子じゃ、いつまでたってもできあがらない。面倒だ面倒だって掃除も滅多にしない男が、細かく神経を使って整えた線を次からふいにしていく。
絵を描く坂田には触れられない。
ただ見ておかなきゃならない、そばにいなきゃならない気がして、隣に気配を殺している。
水平線の近くを白い船が動いていた。
視野の右の方へ、あれはきっと客船だろう。形がそんなかんじ。笑いさざめく人間をたくさんのせているかんじ。何にもないような海の中だ、きっと子供が泣いたって誰も嫌な顔をしない。慈愛に満ちた、とかそういう日常とは縁のない表現で見守ってやるのだろう。
船は、坂田のカンヴァスの外側をゆっくり進む。
いい加減、尻が痛くなったところで立ち上がった。船は灯台の向こう側。坂田もその頃には手を止めていた。
「腹が減った」
「同感」
画材一式を道路に上がる階段の脇に寄せ、あてがあるわけでもなかったが歩き出し、
「刺身が食いてぇ」
「いや、もっとガッツのあるもんがいい」
初めに行き当たった定食屋で刺身のセットと焼き魚のセットを頼んだ。民宿に挟まれてこぢんまりした佇まいのその店は、引き戸を開けてのれんをくぐるとカウンター席が八つくらい、座敷にテーブルが二つ。電灯はついていないが、どこからともなく光が入り込んで、居心地のいい薄暗さになっている。
その暗みの終着点のようなカウンターの奥の席に、女の子が一人うつぶせていた。枕はどうも学校の宿題らしい。夏休みのやり残しか?
カウンターの向こうのひらきっぱなしの扉から出てきたおばさんが、笑顔でいらっしゃいと言った後、ちらり、それを見た。
「空いた席へどうぞ」
「どーもー」
坂田が間延びした声で答えて靴を脱ぐのに続いて、手前のテーブルについた。紺色の薄っぺらい座布団に、向かい合って座る。出されたあたたかいおしぼりで手をふく。坂田のおしぼりはみごとに汚れた。あーぁ。
おぼんにのせておばさんが持ってきた刺身定食は、ひじきの煮物とほうれん草のおひたしにご飯、味噌汁、漬物もきれいな皿に盛られていて、
「すげぇ、うまそう」
「いっただきまーす」
実際すげぇ、うまかった。焼き魚はなんなのかよくわからないが手の平サイズの開きだ。坂田はその背骨に沿って箸を入れながら、声を潜めて話し出した。
「あいつ、何歳だと思う?」
「あ?」
だからあの、カウンターで寝てるやつさ、と視線を流してみせる。
「……さぁ?十歳とかじゃねぇの」
それがどうした。
どうせ背中しか見えないのだ。赤いトレーナーにデニムのジャンパースカート。運動靴。黒い髪はやっと肩に届く程度の長さ。
まぁ、そうだよな、というふうに坂田はうなずいた。
「じゃぁ、おかみの方はどうだ」
「あぁ?」
そんなんろくに見もしねぇのにわからねぇよ。そう思ったが、五十とか?
いちよう答えてみる。
「まぁ、そうだよな」
それからしばらく黙々と食べた。白身魚がうまかった。マグロ至上の認識を改めた。
・・・
つづく
・・・