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「うちの前には公園があるんだ」
ひっそりとうごく唇の、ほのかな赤み。
入り口から机の上まで乱雑に積み上げられた本が、なだれをおこす寸前で埃にかすむ国語科準備室。
まだ、桜は咲かない。しとしとと、雨の降る。
卒業
土方は、本の山の合間を縫って、紙類に埋もれかかったみかんの箱に腰かける。
ここに来るときはいつもそうした。そこからだと、窓際の机に向かう銀八の白衣の背中が夕日を背負って、神聖なものの様に見えるのだ。飽きるまでずっとそれを眺めた。
銀八が時折、意識をこちらへ向けるのを感じた。作業に一区切りつくまでは振り返らないだろう、顔を合わせないまま、空間を、呼吸を二人、共有する。
さらさらとペンの動く音、煙草に火をつけるライターの擦過音、グラウンドや階下の遠い喧噪。頭の中を素通りしていくそれらも全て、銀八の背中と一緒に焼き付いて、心を引き絞るような恋情を構成していった。
幸せに色があるなら、きっとあんな放課後の、黄色っぽいオレンジ色をしているはずだ。土方にとってそれは、痛みの色によく似ていた。
今日はまだ昼の盛りで、西向きのこの部屋は、日も差し込まず薄暗い。
細く開いた窓からの風で、胸ポケットに安全ピンで付けた花が揺れた。
もう、土方はこの部屋には来ないかもしれない。来られないかもしれない。なぁ、と思う。今日が別れの日だから。
体育館での式を終え、教室での涙涙を済ませ、背中をたたき合って「また会おう」「また会おう」、校内は、一気に静かになった。銀八は、机の前でペンを持っていない。
銀八が、振り返ったら、それはきっと別れの合図。一区切り。
土方は、そう考えながらもどうしたらいいのか、どうしたいのか、わからないまま性急に口を開いた。
自宅の前の公園について。
「その公園には、真ん中に滑り台。あとぶらんこと鉄棒と砂場がある。」
銀八は何も言わなくて、怖かった。別れ。
それでも何か、腹の付け根のあたりでわだかまるものをうちあけたかった。そのための熱量が降りてくるのは、今だけだとどこかでわかっていた。
「ベランダから、小学生かな、子供が遊んでるのが見えんだ」
銀八は白衣を湿気に溶け込ませて、灰色の横顔。視線は窓の外、メガネのフレームが鈍く光った。
今日、土方の、支えの一部とともに失われようとする銀八。
「昨日な、かくれんぼをしてて。そいつら」
じっと見つめたまま、土方は話す。
「すげぇ、必死なんだ。鬼が数えてる内から腰かがめて、口も引き結んで」
「……」
「公園の周りの生け垣の外へまわりこんで、きっと中の鬼からは見えないんだろうけど、俺の所からはその背中、丸見えなんだ」
ぴんと張ったTシャツの、虎の顔が太陽にまだらに染まっていた。浮き上がった裾の陰に、日に焼けない肌が白くのぞいた。
「なぁ、先生」
大人はああやって子供を眺めるんだな。
「……」
「そんな、周りに目のいかねぇ、なのに小さい世界でなんやかやわかった気になって、哀れだなって、そういう視線なんだ。俺、いつの間にかそうやってあのガキ共を見てた」
そんな、俺の背中だって、だれが見てたかわかりゃしねぇ。
「先生」
あんたもそうなんだろ?
「なぁ」
じっと、暗い横顔を、見つめる。
びりびりと、意識がつながっているのがわかった。だったら、なぁ、振り返ってくれよ、最後なんだから。せめて一区切り、目を合わせて、穴が開くくらいに俺を見て。俺がいつもそうしていたように。
結局、結局。
「いつもどっか余裕なんだよな、あんた。そりゃそうだよな、高みの見物だもんなぁ。背中の向こうで子供がどんな顔してかがんでんのか、気まぐれに、知りたいってのもわかる気はする」
しゃべりすぎだなぁ、と土方は思った。
いったい何のために、俺はここに来たのか。こんな風に、詰るみたいにするつもりじゃなかった。こんなこと、今更言ったってしょうがない。わかってるのに。
先生、せんせい。
「なぁ、なんでしゃべらねぇの」
銀八はゴムサンダルを軸にくるりと椅子を回し、やっと、土方を見た。窓からの光の弱さは、部屋の中の暗みをゆるめて視線をたしかに繋いだ。この部屋だけの温度で。
土方は意識して呼吸を深くする。喉の奥の震えを抑え込んで銀八を見返す。
徐に、ひらくくちびる。
「土方」
「なに」
「お前がそこで、その子に声をかけたとしよう」
銀八が、いかにも先生のようなしずかな言い方をするので、土方はうなずくだけにした。銀八も、うなずき返す、それがまた先生らしい。
「それじゃぁ、その時、その子はおとなしくお前の方を見るだろうか?」
かくれんぼに夢中で、鬼から視線を外そうとはしないんじゃないだろうか。
「どうだ?」
そうかもしれない、と土方は言った。
「それじゃぁ、その時、その子を振り向かせるにはどうしたらいいんだろうか」
「……」
「俺だったら大福やるよって言われたら振り向くけどね」
「みんなが大福につられるわけじゃねぇ」
土方は少し考えた。
「石を投げる」
「おいおい」
呆れたように笑うやり方が、いつもよりやわらかい。
「まぁ、それもありっちゃありだけどさ。たしかに何か、ものが触れたら気づくだろうな。でも石だと怪我するからね」
これ小学生でもわかるからね。
「だったら手で触れてやった方がよくない?」
土方の、鼻すれすれに銀八は手を突き出す。大きく開いた指の合間からきっちり目を合わせる。
「……手?」
「よっぽど安全じゃん」
「いや、二階から公園まで届かねぇから。よっぽどゴムゴムの、」
はい、ストップ。
「みなまで言うな。そんなチート能力まで持ち出さなくても、公園まで行っちゃえばいいだけの話、な?」
「……わざわざ行くのか」
めんどくさくねぇか。
「めんどくさくたって振り向いてほしい、それが一番で、できることなら俺を見てほしい。なんなら口説き落として手を引いて、二階の部屋に閉じ込めちゃいたいくらいなわけ」
「犯罪じゃねぇか」
「うん、犯罪だったな」
銀八の手が、土方の頬に添えられる。土方はそれに少し、すり寄ってみる。
「どんな気分だったんだ」
「……戸惑い、かなぁ、自分はもっと自制のきく人間だと思ってたし?犯罪やるにしてもそんな風に、一人に入れ込むようなことはねぇもんだって……油断してたよね」
「いや、一人に云々はともかく、誰もあんたが自制できるなんて思ってないだろ。犯罪に腰までつかってるって共通認識だろ」
「ひでぇなおい」
頬を撫でる銀八の手は、いつもより少し冷たい。眼鏡の向こうの目に微笑み。
「そう見せてたんだよ」
そう見せて、ほんとのほんとに押さえつけてる真っ黒いところを隠してた。
土方の唇の端を親指で、擦る。
「お前さ、何度も肩叩いてんのに、まるで気付きゃしねぇ。公園の真ん中で大声上げて笑ってるゴリラとか?その隣で虎視眈々と人の弱みを狙ってるドSとか」
お前の視線はそっちに釘付け。
「背中を見てるだけでもわかる。俺はお前の世界には入り込めない。暗くなればお前は、遊びを終えて、俺の知らないところへ行ってしまう」
ここにいたら。
ここにいるだけじゃ、と銀八は、ギラギラ光る眼玉を隠すように瞼を伏せた。何なのかわからない、殺気をはらんだような強すぎる感情で、その先の物を突き通しかねない光だった。
銀八は自分の何をその光でもって射貫こうとしているのだろうかと土方は考える。
そしてなぜ、それを隠すのだろう。
「先生?」
「お前さ、土方」
ふわふわとした前髪の影で、唇の動きだけが見える。
「先生とはお別れだって、ここに来ただろ。もう、会わないつもりで」
「え」
銀八が、あまりにも当然のことを言うので、土方にはその意図がわからず、目を瞠った。当然のことだ。
銀八は、そういうこった、と投げ出すように言った。
「かっこつけの銀八先生に言えるのはここまで」
「はぁ?」
話が終わる。また一区切りだ。
「土方、おめでとう」
そう言って銀八は、ひらりと右手を振った。
卒業
「……はぁ?」
ちょっと待てよオイ、ここで終わりなんて無しだろ。
「はぁ?」
「さっきからお前、はぁ?はぁ?ってお馬鹿なのかな、頭悪いのかな?」
後は家に帰ってでも考えなさいな。銀八はようやっと立ち上がったかと思うと土方を追い出しにかかった。躾のなっていない犬を追いたてるように急かされる。
「ちょ、や、待てコラ、くそ天パ。その馬鹿を教えてたのはお前だろうが担任様よ、責任とってわかるように説明しろ!」
腕をつかんで引っ張って、土方を扉まで引きずっていく銀八は、ちょっと眉を寄せただけで答えずに引き戸を開けた。ガラリ。
突き飛ばされるようにして土方は、準備室を出た。
「え?」
よろけた姿勢のまま、見上げた銀八は無表情で扉を閉めた。ガラリ。
扉が閉めきる最後の瞬間まで視線が合ったままだった。
「……えぇ?」
嘘だろ、オイ、こんな別れがあってたまるかよ……!?仮にも一線を越えた仲だぞ!!
いい加減にしろ、と思いながら扉を開けようとした矢先、伸ばした手の1センチ向こうで鍵のかかる音がした。ガチャン。
「おいコラ、テメェ!どういうつもりだよ!?」
取っ手をひっつかんで力任せに引いてみても、開くはずがなかった。返事もない。
「子どもみてぇなことするんじゃねぇよ、教師のくせによ!」
え、それとも何?これが大人の対応なの?ドライな関係ってやつ?ヤダ怖い……。
土方は口元に手の平をあてて一歩、二歩下がった。廊下の真ん中で立ち尽くした。
「……マジで?」
相変わらず、銀八は無言をとおしている。
「帰れってこと?最後なのに?」
別れの挨拶もなしで?ありえねぇ!
「何、何なの、何がしたいのアンタおいコラ返事しろォ!クソ天パゴルァア!」
再び扉に取り付いてはみるものの、開かないのはわかっていた。扉を押さえつけている、向こう側の気配は感じるのに。これだけ騒いで、聞こえていないはずがないのに。
薄汚れた灰色の引き戸、擦りガラス。
返事はない。
ふざけんな、と土方は思った。
「こんなんで別れられるわけねぇだろ!」
押しかけるからな!テメェがこのトチ狂った行動を説明しきるまで通い詰めてやるチクショウ!
そう怒鳴って、扉を蹴り付ける。廊下に反響してなかなかの音がした。
「……」
その反響が耳に残っている内に、ふ、と一瞬、頭の中が真っ白になった。完全に思考が停止した静寂の中で、土方は、自分が何かに気付いたのを感じた。
自分の言葉を何度か反芻して、また、口元を手でおおった。
いったい何に気付いたんだ、何に引っかかったんだ?
銀八の真意だ、そうに決まってる。
「バカじゃねぇの……」
根っこはまるで子どもと変わらねぇのに、口ばっかり達者になりやがって、結局はバカなだけだ。肝心なことは言わないまま、土方を掌の上で転がして、わざわざ作った隙に誘導して、あとはお前次第ってか?
ナメんな。
気付いてしまえば、もう今日はここに居座る必要はない。むしろここで粘るべきではない。早々に退こう。
そうだ、そうすればいい、ちょうど、なんだか頬がほてって暑いし、さっさと外へ出よう。冷たい風にさらして歩こう。
そしてまた、来よう、ここへ。なぁ、先生。
卒業
「おめでとう」
また来るよ、その時はジーンズにパーカーはおって来る。あんたのネクタイほどいて、白衣を脱がせて、便所サンダルはゴミ箱に突っ込んで、それから眼鏡をはずしてやる。
それで、それで、先生、俺はあんたを何て呼べばいいのかな。
一緒にかくれんぼするのに、先生なんておかしいよな!
・・・
おわり
・・・